グローバルな視点からフクシマを考える
伊豫谷 登士翁(一橋大学大学院社会学研究科名誉教授)
多くの人たちが、さまざまな局面において、大きな変化の時代であると感じている。その変化を捉える言葉として、しばしばグローバリゼーションという語が使われる。それは、企業のキャッチコピーから諸学問分野の専門用語まで、時代を表す言葉として登場する。しかし、グローバリゼーションが何をさすのかは、合意があるわけではなく、そこに未来への希望が託される場合もあれば、絶望的な貧困や格差の拡大を意味することもある。共通した理解を求めるならば、私たちが直面する課題は、資本主義や近代そのものを問い直す長い時間のなかで捉え返さなければならないということ、そして暗黙あるいは無自覚に前提にしてきた国民国家という枠組みを越えて考えなければならないということである。
福島はいまや海外の人びとの重大な関心を集めるグロ-バルな課題である。それは、広島や長崎と、そしてチェルノブイリやスリーマイル島と結びつき、批判的な研究者にも大きな衝撃を与えた。その衝撃は、経済成長への批判や環境保護の運動にとどまるのではない。原発が人間の制御し得ない未熟な技術であること、ひとたび事故が起これば人類にとって取り返しがつかないことは、政府や電力会社の狡猾な宣伝にもかかわらず、広く知られていた。しかしながら、自分の身近では起こらないという暗黙の無関心を装い、見えながらも見ぬふりをしてきた。ここで問われているのは、政府や企業あるいはマスコミだけでなく、国家に奉仕し続けてきた知の共同体である。
持続的成長や核抑止を信奉してきた現実主義だけでなく、反原発や反核を主張してきた理想主義も、再審に晒されている。そしていま、時代の大きな変化に巻き込まれるという不安と取り残されるという不安、この二つの不安の空隙を埋めるものとして、ナショナリズムやコミュニティ論が台頭している。3.11の大きな出来事を前にしたときに、あらためて一人で生きているのではないと実感した人たちも多い。しかしいま求められるのは、一人ではないということを、地域やナショナルな次元に閉じ込めるのではなく、グローバルな場につなげることである。世界はフクシマを、そして東北を注視している。
(生活経済政策2012年1月号掲載)