「われわれ」の可能性
新川敏光(京都大学大学院法学研究科教授)
格差社会への危機感が深まり、社会的連帯を求める声が高まっている。ただその声は、連帯へのうねりを背景にしてというよりは、客観的条件に対応した連帯や主体形成が一向に進まないことへの苛立ちを反映しているように思われる。脱工業化社会においては、利害の多様化やリスクの個人化が生じているため、社会的連帯が困難になっていると、しばしば指摘される。しかし、この困難をあまり強調するのは不毛であるばかりか、危険ですらある。それは、新自由主義的言説に絡め取られた自己充足的予言になりかねないからだ。
歴史を紐解けば、マルクスが「万国の労働者、団結せよ!」と鼓舞したからといって、各国の労働者たちが国境を超えた社会的連帯をすんなりと実現したわけではなかった。西欧社会民主主義は、むしろ国際的連帯の失敗の上に築かれた一国主義的戦略であった。もっといえば、一国内においても、労働者が団結することは、そう簡単なことではなかった。階級的団結などとは無縁なまま、脱工業化時代に突入した国もある。労働者階級などという主体が、予め存在した国などどこにもなかった。それは、資本家階級という「敵」が発見されたときに出現したのである。「われわれ」という主体は、「敵」なる他者を「発見」したときに立ち現れる。そこで決定的に重要なのは、彼我を線引きする言説である。
昨今プレカリアートなる言葉を耳にするが、それはフリーターや派遣労働者など非正規労働者をバラバラの個としてではなく、「われわれ」として立ち上げる作業として評価できる。むろん、「プレカリアート」だけでは格差社会を変える原動力たりえないし、「敵」を見誤れば、市場主義に反撥するナショナリズム言説に回収される畏れもある。今日のグローバル化に対応するためには、「われわれ」が他者によって確定されること、連帯が排除を伴うことを自覚しつつ、国境を超えた連帯や市民社会の形成に開かれた言説を準備する必要がある。
といっても、解放の大きな物語を再構築しようというのではない。ローカルに語ること、その積み重ねのなかからこそ、グローバルな連帯を可能にする言説が生まれるように思われる。
(生活経済政策2008年2月号掲載)