商品売買と社会的コミュニケーション
田中 洋子(筑波大学人文社会科学研究科)
カイロやテヘラン、ダッカの街角で買物をした時に、よく経験する話である。
店頭の商品を見ていると、まぁ座れと椅子をだされる。落ち着いて座ったところで、店の人たちが次々と品をだしてくる。と同時に、どこから来た、何しにきた、いつから来ている、この町はどうだ、日本の製品を知っているよ、と世間話がはじまる。 話がはずんだところで値段交渉だ。若い店員から店の奥にいる店主まで総出で、互いに粘って駆け引きをし、最後は歩み寄った価格で折り合って笑顔で別れる。紅茶が運ばれて茶飲み話がはずみ、買物を忘れてそのまま帰ることもある。
一つのものを買うのにも時間が随分かかるが、そのかわり店の人たちと人間関係ができ、次に会った時にも声をかけられる。ものを売り買いすることは、取引以上の、社会的なコミュニケーションという意味を持っているのである。
日本に戻ると、コンビニにしろスーパーにしろ、ものを売買する効率性のよさにあらためて驚く。客は店員とは無関係に、圧倒的に豊富な品揃えの棚から自分で商品を選べる。客を見ているのは監視カメラだけだ。レジに並ぶと、バーコードやカードの自動読み取りで瞬時に定価で売買が成立する。
列に並んだ客をさばくため、アルバイト・パート・短期派遣バイトなどの店員は、ひたすら素早く値段の入力と金の出入を行う。忙しいレジでは客がどんな人かを見る余裕すらない。客に話す言葉も決められており、無駄話をする余地はない。
多くの人々のたゆまぬ努力によって、私たちは商品の売買に関わる無駄な時間を大幅に縮小し、より効率的でスピーディーな販売・決算システムを発達させてきた。ネット取引の増大により、店舗そのものもヴァーチャル化し、生身の人間と空間を同じくすることも減ってきている。
しかし、この便利さ・効率性の実現と引き換えに、私たちは逆に人と人との社会的コミュニケーションを失ってきてはいないだろうか。面倒である一方、時に心の支えにもなり、社会との結びつきを実感させる人との直接的なふれあいを、ますます遠ざける方向に進んではいないだろうか。
人と人との関係は、効率性という尺度からは生まれてこない。たわいもない話をする、もめた後に落ち着く、一緒に楽しく過ごす…。一見無駄に見える不効率な時間が持つ価値を、私たちは社会として再認識する必要があるのではなかろうか。
(生活経済政策2007年5月号掲載)